母の話

2007年04月08日 01:18

母は中学を卒業してから、県外へと就職した。
たくさんのきょうだいの中の一人・・・しかも女だったから。

昔は 中卒で働きに出ても当たり前の世界だった。
中学を卒業するまでは 故郷で暮していたわけだけど、
「子守」と称して親戚の赤ん坊を 
真夏の一日、 自分の背中に背負ったまま遊びに出かけて、
子どもが熱中症になって危ないところだった・・・と
無邪気に語るような 罪のない笑顔の 
邪気の人だった気がする。

昔では当たり前だろうが、
ずいぶんと早くから親元を離れているので
「親」としての態度や 子どもに対する接し方は 
ことごとく持ち備えていなかった。
・・・そう考えると、 わたしの親の年代が 
とても危ういものに感じる。

そして月日は流れ、父と出会い、わたしがおなかの中に宿った。
母の親戚は結婚に反対していた。
祖母の妹、 母にとっては叔母に当たる人が
父と同じ出身地の近くに嫁ぎ、  
大変な苦労をして亡くなったという。
祖母は 亡くなった妹の配偶者どころか、
嫁いだ土地までも恨んでいた。
「病気をしているから、連れて帰ってくれ」 と
連絡があったときには
故郷を遠くはなれた 僻地で 
手遅れの状態で床に臥していたというから、無理もない。
大切な子どもの一人を公害病で亡くし、 
一人をため池に見失い、 今度は妹まで。。。

祖母は 母に似て 無邪気そうに見えるが、
とても頑なな人だった。

タイミングの悪いことに、父は伝染性の病気にかかり
長く療養所で過ごすことになった。
わたしが生まれる半年ほど前から・・。
わたしはたった一つ、気に入らない男の血を引いている
・・という以外は
母方の親族に受け入れられて 母の故郷で生まれ、 
大切に育てられることになった。
父は 少しして回復したが、 
姑(わたしにとっての祖母)に
いいところを見せようと商売をはじめ、 失敗した。

ほんの少し残った記憶の中には
父と移動販売車のバスに載って、 
古くなった油のにおいや、コーヒーの匂いの中で
観光地を走っていたこと。
弟が生まれて 
母は急にわたしをスパルタ教育と称して 
年齢にそぐわないしつけを始めた。
ひとつ違いのいとこが 
いわゆる「天才児」と周りにもてはやされていたから。
普通の知能の子どもに、母は無邪気に
読み書きや足し算引き算を教えた。

それがわたしが3歳すぎのこと。
・・・このことを 今 母に言うと 
記憶回路がどうなっているのか
まったく覚えていないのだと笑う。
「まったく、余計なことばかり昔から覚えてるんだね」と
最後には怒り出すのだが、明らかにその言葉尻は
何かを覚えていて 
知らないフリをしているようにしか見えない。

母は、教えるときに 必ず片手に何か持っていた。
ものさしだったり、はたきだったり、 
菜ばしや なぜか火箸だったり。
それで問題が解けないわたしを こづきまわすのだ。
「ご飯を食べさせないよ!」 と
怖い顔をされたことも覚えているが
本当にご飯抜きだったかどうかは 覚えていない。

弟が少し大きくなると、 猫かわいがりにして
親子二人でわたしを攻撃することを始めた。
当時4〜5歳の弟に「ぐず、間抜け、バカ、歯抜け」 と
大の大人が教え込み、 
二人でねちねちと執拗に言い続ける。

歯抜けになったのは わたしの虫歯のために
歯医者に通うのはお金がもったいないから、 と
 通わせなかったためでもある。
小学生になったときに 検診で歯医者に歯の治療をきつく言われ、
初めて歯医者に通うことになったが、 
一人で通っていたため医師の受けは非常に悪く、 
治療のため抑えて無理やりすることで
強いストレスを感じて 
わずか7歳で 何度も倒れるような(失神)羽目になった。

この失神体験が 後に 
てんかんや脳腫瘍の誤診をされるきっかけになった。

母のスパルタ教育は  
元になる伯母の家族と距離が離れてから 幾分軽減した。
けれど、 来客があったら隣の部屋でひと言もしゃべるな、や
外に出たら 迎えに行くとき面倒なので 
外に遊びに出てはならない・・・ など
たくさんの家庭内憲法を作り上げては
母は わたしを家から出さないようにした。

また、一方では 弟を溺愛し、
弟が外に遊びに行くことに関しては黙認していた。
・・・それも3人目の 妹が誕生するまでのことである。

妹が 誕生すると、  
弟は必然的に母から捨てられることになった。
なぜなら、母はより小さい生き物を好み
最初はわたし、 次に弟、  さらに今度生まれた妹に
・・・関心はいともたやすく移る人だったから。
弟の面倒は 妹の誕生と共にわたしが見ることになった。
2歳違いの弟が まだ5歳直前のこと。

・・・この頃の弟とわたしの記憶は失われている。

突然の出産に 
母は近所の人にもわたしたち二人を託さず
母の出産後、急を聞いて母の妹が来たときには、  
幼いわたしたちは
家の貯金箱を割って そのお金でお菓子やパンを買って
食べていたという。
それさえも覚えていない。

父はどうしていたのだろう?
いつも誰かの目を気にして  
いいところを見せようと躍起になっていた父。
夜逃げして 故郷の地に帰ってきたはいいが
こりもせず 再び始めた商売に再三失敗。
長距離トラックの運転士として働くが、  
子どもの成長も 無邪気すぎる母から 聞いたまま、
そのまましか信じなかったけれど。

母は いつも事実とほんの少しずれたことを言っていた。
「ずれ」を子どもの話から感じると、怒りで報いていた。
自分のことを信頼しきっていたのだろうか?
それとも 繰り返す人生の徒労を 
子どもに当たっていたのだろうか・・・

・・・長くなってしまった。
母の話は  まだ始まったばかりだけど今夜はこれまで。

いつかの話

2007年04月08日 01:37

流産の処置をされているとき。


今でもフラッシュバック(?)してとても嫌な感じになる。
麻酔が効き始めないうちから 処置が始まったこともあるし
何より精神的に  最も脆かった時期でもあるし・・・。

ベッドの上であまりの痛みと恐怖に
叫びだした声は止まらなかった。
「やめて、タスケテ、コワイ」   「コワイ」
恐い・・・それだけが頭の中でリフレインしていた。
まるで今から外界に出されようとする 
死んだわが子の気持ちを代弁するように。


笑気ガスは なかなか効かなかった。
何人もの看護士が駆けつけ、
わたしは両手両足を押さえられた。
「ガスの量倍にして!」 短く医師の苛立ったような声。
息苦しい。
そしてまもなく  体の力は抜けたようだ。
でも  神経が醒めていた。
視覚は 麻酔のために 
歪んだ赤いペルシャ絨毯のような、
万華鏡のようなものが見えた。
聴覚は 最後に聞いた医師と看護士のやり取りの語尾が
エフェクターをかけたように エンドレスで聞こえる。
・・・気持ちが悪い。


麻酔をしたのはそれが初めてだったが
笑気ガスでの麻酔は 神経までは眠らせないみたいだ。
後年、 他の手術で腰椎麻酔と 全身麻酔を経験したが
感覚が明らかに違う。
気持ちの悪い『声』はトラウマになって  
今でもラップやヒップホップ、  
≪クラブ系ミュージック≫でよく聞くエフェクター効果に
強い抵抗感がある。
ひどい耳鳴りのような感じと  自分の恐怖と
目の前が真っ赤な万華鏡のような世界にとても混乱していた。
やがて どうかした拍子に
手が処置用のベッドからコトリと垂れた。
金縛りのような感じ・・・ そう気がついて
声に神経を集中させ ようやくひと言だけ絞り出せた。

「コワイ」            
・・・自分の声はまともに聞こえた。   
小さい呟きだったけど。
呟いたそのとき、 
すっと横から手が伸びてきた感覚がしたかと思うと
わたしは手を包まれるように 握られていた。
ポンポン と子どもをあやすように軽く叩いてから 
処置が終わるまで。
近くで立ち会った看護士だろうか?
それとも・・・・。


処置室より離れた受付で 待っていた夫は
わたしの叫び声を聞いたという。
どんなことを言ってたのか?と一度聞いたことがあるけれど
『聞こえたよ』  とだけ答えて 
二人の会話は途切れた。
夫にも あのときの傷は声になって残っているのかと思うと
申し訳なかった。




・・・・話は    これだけ。。

記憶の無いこども

2007年04月08日 01:39

わたしは小さい頃から少しだけ、
人より多くのことを記憶しているようだ。
弟が生まれたのが、わたしが3つになる2ヶ月前だから、
そのときには既に 物心ついていた・・というか、
ある程度の記憶が残っている。

用水路に落ちて肩まで水に浸かったこと、
階段の上がり口で 急に気分が悪くなって
そのまま階下へと転げ落ちたこと。
弟の生まれる前の晩、父が鍋焼きうどんを作って、
冷ましながら食べさせてくれたこと・・。
生まれた弟がとても大きく感じて、
ちっとも可愛いと思えなかったこと。

色々と思い出せば、 もしかしたら 
おしめをしていた時代?とも思える記憶もあるけれど。

今日は  そんな思い出話ではなくて。

そんな感じで、異様に小さい頃の記憶が残っているわたしでも
ぽっかりと穴が開いたように 記憶の空白がある。
時々、  何かの拍子にフラッシュバックというか、 
思い出すことはあるけれど 
6歳から小学校入学して8歳を半分過ぎるまでは
ほとんどの記憶がないんだ。
・・・その原因は 思い起こせることもあれば 
いまだに  思い出せないこともあって・・。

そのひとつが   妹の誕生前後。

小学校に上がって初めての冬、 妹は生まれた。

その前くらいから母は、
それまで溺愛していた弟の世話をしたがらなくなった。
幼稚園に入る年になっても、就寝時は 
母の胸をまさぐるような甘えん坊の弟だった。
母と弟VSわたし  という構図が崩れ、 
わたしの側に弟が急にくっつけられたという感じ。
付け焼刃の 姉弟(きょうだい)愛だった気がする。
そのあたりから 記憶は あやふやで  
親子で過ごした時間を記憶のハコに持たない。

そんな冬の夜、 母はわたしたちを叱っていると、 
不意に立ち上がって仕度をはじめ
「あんたたちがわたしを怒らせるのが悪い!」 と
捨て台詞を吐いてそのまま出かけてしまった。

・・・思えば、それが陣痛が来たか何かだったのだろう。
その夜の、そのセリフまでは覚えているのに
それから先、 妹が歩き始めるまで、 
・・・心配したわたしがあとを追って  
ストーブの上のやかんを落として大やけどを負うまで
すっぽりと  何もない時間がある。
同じ時間を過ごした弟も、 
同じように小さい頃からの記憶を持っているが、
同じ時期の記憶を ほとんど失っている。
うっすらと覚えていることを   
ごくたまに 帰郷したときに話してくれたことには・・・

妹が生まれる晩、やはりわたし達きょうだいは、
二人で家に取り残されていた。
父は仕事で、出かけると2週間は帰ってこない人だった。
ご飯しか食べるものがなくて  
風呂も入らず 二人で布団を引き摺り下ろして眠ったらしい。
母が電話して 他県から叔母が駆けつけてくれるまで
今  当時の交通事情を考えると  
どんなに早くても丸2日はかかる。
看護婦をしていた叔母が姿を見せたのは  
母の退院の日だと あとから母から聞いたので
およそ1週間は 
7歳と4歳の子どもだけで暮していたことになる。

・・・わたしはナニをしていたのだろう?

弟はおなかを空かせて 
ブリキの貯金箱をかなづちで壊し、中の小銭でパンを買った。
駄菓子屋でありったけのお菓子も買ったらしい。
わたしといえば、  
おかしなことに小学校へ行っていたようだ。
記憶がないので 弟からその話を聞いたときは
正直 4歳の弟を残し学校へ行ったのか、と言葉もなかった。
本音は 給食目当てだったのかもしれないけれど。

弟は  家の貯金箱2つを壊して使い、 
飢えをしのぎ 時間を埋めていった。
わたしは機械のように  
(登校班には加わっていなかったらしいが)
どうにか学校へ出かけ・・・。
そして、近所の人は 幼いきょうだいが二人っきりだと
後になるまで気がつかなかったことになる。
わたしは学校の友達や先生にも事情を話していなかったようだ。

叔母が来てから当然母も帰宅し、 
こっぴどく弟もわたしも叱られたのだという。
貯金箱を壊して使い込んだから。 その理由で。
母の不在時に 二人で暮していたのだと 
弟が母に語ったことがあるが、
母は 
「近所の人に、『いざというときは頼むね』と
 言ってあった。お前の思い違いだろう」  と
話を一蹴し、 話はそこで途切れた。
近所の人の記憶さえない。。。

覚えすぎていることも 怪しげなことだが、
何も覚えていないことも 怪しげなこと。 
今なら何があったのか 漫然と予想は出来るが
弟もそれ以上は思い出せず 
母もそれ以上は語ろうとしない。
なくなってもいい記憶だったのだろうか と  
思うことにしている。

それでも 時々  
あのときの自分を取り返したくなるのはどうしてだろう。

性的ミュータント

2007年04月08日 01:41

この世の あまたな生き物の中で、性的に未成熟なものを
性的目的として考え、行為を実行するのは人間くらいなのかな。

他の生き物は、成熟していない個体にたいして 
ソノ行為を強要することもない。
チンパンジーなど類人猿は 
人間に似て、性行為で快感を得ることが出来、
『快感を求める』・・・それ自体が目的の性行為もある
・・・という記事を読んだことがあるけれど。
チンパンジーは 人間と違って、幼い個体と性交渉は持たない。

他の生き物は 繁殖を第一義としているから、 
性行為に快感を伴う感性は 
脳の中で発達していない、とも聞く。
・・・いずれにしても、 人間は性に関して 
際立った変化を遂げている。

繁殖期と関係なく(繁殖期は人間にあるのだろうか?) 
性行為で快感を覚え
繁殖の意味を逸脱した人間。
生き物的に 繁殖もできない幼児に 
性行為を強要する成人が存在する 今、
『逸脱』 は日常生活を蝕んで 深く入り込んでいる。
性行為を 聖域と 声高に言うつもりもないし、
そんなに潔癖な人間でもないけれど。
ジョンベネのような 被害者をみるたびに
人間はこんなことをしていて いいんだろうか?と思う。
逸脱しても刑期を終えれば社会に復帰し、 
性癖は治ることもなく
悲劇は繰り返されている。

加害者を 抹消してしまいたい。

性的ミュータントの排除を 願うのは 
ヒステリックな女性の感性なのかな・・?
わたしは 旧人類として
性的ミュータント(突然変異体)を許せない。
快感だけを追求する進化なんて 
ただの『変化』に過ぎないと思うから

[性的ミュータント]の続きを読む

少し 父の話

2007年04月08日 01:43

今でこそ 対人的なやり取りで人を不審にさせても すぐに
「おかしな人ねぇ」で済ませてもらえるようになった。
不審より奇異、チョット変な人 的扱いで 
ぬるく周りをごまかせるようになったと思う。

それでも時々不意に
「●○ちゃんは来年は○組になるんだねぇ」 とか
「○●さんはこう言ってる・・・と思う」(○●さんは故人)とか
隣でワサワサ喋っているナニカの声を通訳してしまう。
そのたびにちょっと引かれ、ちょっと気味悪がられてしまう。
・・・特に体調が悪いときは  
自分でも制御ができないので困りものだし。


父を 一時期かなり恨んでいた。
父は わたしの
「ナニカ先のことを言い出したり(それが当たることも多く)
 見えないものを聞き視るチカラ」を
夢だ・幻だ! と一点張りで信じてくれなかった。
そのためにずいぶん自分に対し 
違和感や拒絶感が消えず 今に至っている。
それでも やっとこの年になって
父はもしかしたら 
わたしのエキセントリックなところを打ち消すことで
『普通』の人生を歩かせたかったのではないか と
思うようになった。
素直に娘の能力を認め 信じてしまうと
たぶんわたしの将来は すごく限定されたものになっただろう。
卓越した能力がない限り、 
その芽(眼)をふさいでしまうことで
当たり前の大多数の女性の生き方が
まっとうできるのでは・・・・  などと。
アハハ・・^_^;
父を視ることはないので こればかりは推測に過ぎないが。

父のおかげで(?)か わたしは道を逸れることもできず
まっしぐらに社会人になり、 配偶者にめぐり合え
配偶者はわたしのおおよそを理解し、 認めてくれた。
小さな娘に対し、ごく普通の人として育てたいと願う現在、
父がわたしを見ながら想ったことを推し量ると 
同じではないかと思えるようになった。

さすがに 娘が(世の中の人にとっては)
突飛な発言をすると どぎまぎする。
あ、同じものを背負ったのではないか・・・ なんて。
娘の心の中は 成長途上で小さな宇宙のよう。
わたしは娘を抱きしめることしか術がない。

奇なるもの

2007年07月23日 20:51

以前のブログで記事として少しだけ触れた、「奇病」。

あの時は 父とわたしの関係について重きをおいて 軽く流すように書いた。
父は わたしの行動・言動に対し、常に「ソレは夢だ、幻想だ。お前は夢をみている」と否定し
わたしは、成人してもその呪縛に囚われていたこと。
「この世に絶対などない、絶対に」をまるで呪文のように使い、
どこにもナニにもなれない無力な「わたし」が生成されたこと。
記事のつまりは・・・親子で奇病に罹っている、、、という まことにクライw オチだったのだけど。

わたしは実際、奇病の遺族である。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20060907/20060907_055.shtml

個人情報とか、色々難しいこともあるし わたしは知人が見れば「!」とわかるような
変な画像やヘンな話も時々書くのでw、
「奇病」のことは 書かずによい  むしろ  書かないほうがよいほうの話。
それでも今、少しだけ書きたかった。
たぶんわたしくらいの年代が 最後の遺族だろうから。

奇病に罹って亡くなった伯父は漁師をしていた。 
小さな田舎のややこしい家制度のために 一番上の兄は長子であるにも拘らず養子に出ていた。
その次にできた、祖母にとっては大切な「跡取り」息子だった。
若くして倒れ、苦しんで苦しんで、踊るようにもがきながら亡くなったと聞く。
祖母に限らず家のものは全員嘆き悲しんだ。 
わたしは、というと 伯父が亡くなってから生まれた。
少し事情があって生まれてから半年と、幼い頃に本家に預けられていたので
わたしは伯父叔母のなかの「末っ子的扱い」で一族の歴史や感情の流れをみてきた。
生まれた故郷の名は、言えない。 あのあたり、だ。

・・・話を戻そう。

伯父が亡くなって少しして知恵者がやってきて、
「彼の亡くなったことについて調べたい、調べて某所に訴えれば・・・」と言い出した。
叔父は若く、慕っていた兄の死に納得がいかなかったようだ。 知恵者の意見を推した。
祖母は反対した。
「(墓を)掘っても生き返らんですもんねぇ。
生き返らんばあの子を殺すのはやめてください」

祖母は伯父の死を調べることを「二度殺す」「墓を汚す」と言って許さなかった。

小さな田舎。
その土地で「奇病」で亡くなった人が出たとなると、海で生きる人にとって死活問題になる。
自分の家はもちろん、他のものにとっても。
その土地では生きていけなくなるだろう。 その土地も差別を受けるかもしれない。
差別、偏見、そして 愛した子どもの墓を開いて再び調べることへの後ろめたさ。

わたしが生まれ育った「家」は伯父の死を封印した。

伯母が亡くなり、祖父母も鬼籍に入り、他の兄弟も年をとった。
もう「奇病」について その土地で実際にあった「事実」について語る人はいなくなろうとしている。
「家」のなかで育ったわたしが最年少、といったところか。
そのわたしも堂々と語ることはない。 このWEBの記事が最後だろう。
語りたくても語れない、 今さら語っても 偏見を恐れるほかの遺族をわたしは知っている。
「生き返らんばあの子を殺すのはやめてください」
祖母の嘆きは 家の教えになって沈黙を守り続ける。
被害者、と名乗る方々のその深刻な背景のもっと後ろに、名乗らないものたちが
たぶん大勢 ひっそり今も生きている。
黙って生きてるんだ。

苦界浄土。

その4文字を目にするたび 苦い海の水が口の中に広がる。

あびゅーずのこと

2007年12月06日 01:50

マラヤ通信のコメント欄より自コメント。

小さい頃から父に「お前の言うことは夢だ妄想だ」といわれてきたきむろみです〜。なにか口にするたび否定されてきたので、他人発信の情報・噂には基本的に流されやすいかもしれません、ご注意を(笑)
わたしは「父」から離脱するために相当な時間とカラダを張りましたです。でも、まだなんとなく自感覚より他者感覚を優先させてしまうようで、目の前の事実や入ってくる情報が、良いのか悪いのか判断できず立ちすくむことが多いです。
すっかり大人になったので、たぶん今なら父の心の深い部分を理解できると思うのですがその溝は埋まりません…などと青臭いことを書いてます。わたしの場合、怖いのは噂より自分なのです。


ええ、父から離脱しきれてませんですよ。
カラダ張った、と書いたのは親子の愛憎がイヤで嫌でしょうがなくて、時々ODとかしたことなのです。
父はわたしへの子育てをためらうことなく「愛情」で括るのでしょうが、わたしは父の子育てに「abuse」の括りがあると思っています。

今夜、CAPワークショップというのに参加してきました。
※CAP:子どもへの暴力防止プログラム(Child Assault Prevention)の略
救急講習が受けたかったんですけど、今年度は無いそうなので仕方ないっス。
ワークショップやセミナーと言う名前になんだか怪しさを感じてしまうわたし。洗脳、と言う言葉が頭をよぎります。カタカナの名前の講習会って慣れないわ。

わたしの父は、祖父から実子なのか疑われそのことが原因で長らく認められず愛されなかった。
…これがわたしの父の家族歴であります。
祖父は低所得層の末っ子に生まれ、小作を続けながら戦争が始まるまで働き続けていた人だったそうです。

基本が「愛されない」からはじまった父は、生まれたわたしをわが子と認識しながら、自分の過去の生育歴を拭えず、祖父が父にしたように'''存在を否定する言葉'''をかけ続けました。
すなわち『お前の言うことはすべて夢だ、妄想だ』…ギャグみたいでしょうが小さい頃からこうなんです。
反面、過度な束縛で子どもを支配下に置き続けまして。
小学校に上がると一段と束縛は激しくなり、友達の家に遊びに行くときは『住所・名前・連絡先の電話番号・何時何分に出かけ、何時に帰宅する予定か毎回書け!』……などと言うのは通常でありました。ギャグじゃなくて普通の家庭なんです、ウチ。
それが普通の家庭だと思っていたんです。
わたしは一番上の子としてずっと家にいるように躾けられ、ずっと学校と家の往復で義務教育を終わりました。義務教育後は…もう外に出るのも億劫でしたから家にいましたw

お客さんが来たら、一言も話さず姿も見せず部屋でじっとしていろ、なんて家庭内ルールもありまして。
子どもが家にいることを知らずに上がったお客さんが、ふすまを開けて隣の部屋に息を殺して子どもがいるのを見て驚く…のは、むしろ面白かった。子ども心に「してやった!」という意味不明な喜びがありました。

父は酒に酔うと『この世に絶対と言う言葉はない!絶対!!』と繰り返して言いました。
【絶対】は絶対ない、絶対。
矛盾したこの口癖を、きょうだい同士で父がいないとき嗤っていました。父を嗤う、そういうところでしか不満は発散できませんでした。

<愛されずに育った、努力なくしては生きて来れなかった。>
…そういうニュアンスはよくわかっていました。
けれどあの頃は、限界の無い【絶対】に向かって絶対努力し続けなければ、父は子どもを我が子と認めない…そんな父が苦痛でなりませんでした。

父は年を取り、一度倒れた後、現在は発語に支障をきたすようになりました。もうあの頃のように『絶対』を連発することはありません。
努力すれば、リハビリすれば確実に回復していただろうに、父はリハビリを「大丈夫だ」の一言で退け、「絶対元に戻れないことなんてことはない、絶対」 …を、「絶対回復することなんて無い、絶対」 …に一人で勝手に突っ走って行きました。どこまでも自分勝手でわがままで、ナニをアピールしたいかわからない人なのです。
きっと、たぶん、父は(だれかに)愛してもらいたい。
愛されて、愛されて、ワガママな自分をとことん赦されたいのだと思います。すっかり大人になってしまったわたしは、やっと父のことをこんな風に思えるようになりました。


さて、話をCAPに戻しましょう。

虐待に連鎖がある、というのはよく聞く話ですが、祖父から父に、父からわたしに、と言う経緯は前段の話でよくお分かりいただける?と思います。(わたしもムスメに連鎖しちゃってるのかもしれませんねぃ。)

今夜CAPの講習を受け、ロールプレイ(寸劇)や自分の過去歴などを1分ほど話す場で、わたしが父から授かったものは愛情だけでなくassault・abuseもあったんだな、と再認識。…再認識と言うか、、、フラッシュバック。orz

感情が後退するたびにブログをやっていない時期はノートに書き綴り、ブログを始めてからはブログに書くことで、段々と父とのコトなどが客観視できるようになりました。
まだまだ肉親の情は、愛とか憎しみとか一言で書けない、越えられないこともありますけれど。
子どもの頃受けた言葉や肉体の暴力は、早々消えないのだなぁとこんなに年を取っても越えられない絶望感に軽く打ちのめされています。
若かった父。【絶対】と言う言葉に特別な呪文でも感じていたのでしょかね。絶対、子どもを傷つけないという無償の愛情がわたしは欲しかったな。 …。無理か(笑)

これからもきっとわたしは、親の愛情とか、「絶対」という二文字に父の存在を感じて立ちすくんでしまうのでしょう。
疎ましくても憎くても、父はそこに絶対の存在感でわたしを圧倒し、血のつながりや家族ということをぐいぐいと押し付けるのでしょう。
父らしいといえば、父らしい。 ふん。

発語がおぼつかなくなりちょっと柔和になったような物言いで、父はわたしの家を時々訪れては二言三言話し、いらないというのにどこかから買ってきたお菓子をくれます。
大またで歩くこともできずひょこひょこと歩く姿は老人のようです。
両親を嫌い故郷を離れている弟は、最近実家の玄関に手すりをつけました。父は手すりをたよりに靴を履き出かけます。

父から受けた愛情と、それ以外のものをまだ消化できないわたしは
いつまでも父の子どものままなのです。 くやしいけれど。

※abuse…虐待, 酷使; そまつに扱うこと

私心

2008年01月25日 16:43

わたしは殴られなれてるから、殴られる痛みに鈍感なのかもしれない。

被虐待児が成長し、虐待の連鎖をするとよく言われている。
よく言われてないのか?
……いずれにしろ、わたしは虐待の連鎖はあると思っているし、自分が虐待をする側に立つことを恐れている。
わたしが子どものころ殴られたくなかったし、恐い目に遭いたくなかった。でも殴られ虐げられた。
今、長じて子どもを感情に任せ殴ろうとは思わない。
殴られたから殴り返す、それは子供同士の喧嘩ではありえても大人対こども、大人対大人では内容がずいぶん違う。
たとえば子どものときの古傷が痛むからと、大人の手が子どもにかけられては、子どもは幾つ命があっても足りない。
大人同士が殴り合えば、知恵に任せて相手を肉体的・精神的にねじ伏せるだろう。そんなことの望むらくもない。

そう。わたしは子どもの時代を生き抜き、成長して大人になった。
親から殴られても死なず、虐げられた屈辱に自死を図っても死なず、無事命を永らえたのだ。
こうして永らえた命は、わたしの目から見ると「虐待によって失った何かから得たモノ」だと思う。
肝心な何か、というところに当てはまる言葉は見つけられないのだが。

ゆるゆると生きながら思うのは、わたしは何か人より欠けているということ。
他人のせいにして申し訳ないが、申し訳ないがわたしはナニかを欠いたまま生きている。
それは自分が自分を手放そうと思う心を持つ前に、「心の芽」の時代に大きく他人から損じられたからだ。

――わたしはマイナスの想いに陥ると恨めしく思う。
何故わたしは殴られたのか?なぜわたしは虐げられたのか?
殴られて当然、虐げられて当たり前の人間だからか?わたしは悪く汚れているからか?
考えても答えが出ないようなことを延々と繰り返して出す答えは、
「わたしが悪く汚れている人間だからだ」
他人が悪いのだ、わたしを傷つける他人がわたしを汚してしまったのだ。
けれどわたしは生きたい。汚れてても生きたい。
汚れる前のわたしの分まで生きたい。
わたしのマイナスの起点は「他人から損じられた」という被害意識。
自然に欠けた、アクシデントで欠けたものでなく自ら落としたものでもない。強烈な被害意識。

――わたしは時々解離性同一性障害なのでは?って自分を疑う。
もしくはボーダー。はあ、医者に行けよ自分。っていうか、障害に行き着く自分が悲しい。

障害が嫌なのではない←こういう言い方はしないでおこう。
障害はないほうがいい。障害を持つと就業や就学でどうしても差別されるのを知っている。嫌だ、と言っても現実はそうなんだ。
けれど障害を持ち、手帳を交付される人だと少し待遇は違う。
国から補償された制度でお金はナントカなる。とりあえずお金で解決してくれようとする。健康な体に生まれたからには国からは何も保障されないものね。自分で保険を掛けて保障して、自分の足で立つのが健康な人。……だから、障害を持つ人のほうが時にはラクなこともある。
(こんなこと言ってたらアイツがすごく怒るんだろうな、とリアルな知人を思い浮かべる)
手帳を交付されない障害を持つ人は、、、、、、はっきりいって厳しい。
差別されるだけでちっともよかない。
手帳を持っている知人もいるし、手帳はない心の障害の知人も知っている。だから思う。
障害はないほうがいい。自分は手帳のないほうの障害ではないか?と行き着く自分が悲しい。
人は人を傷つけ差別する。
どんなに願っても差別や虐待はなくならない。
自分に障害があると思いたくない。



いろんな被虐待児と関わってきた人らが書くものに、被虐待児に対し『あなたは悪くない、汚れてない』と教えてあげる、と書いてある。
先日参加したCAPでも被虐待児に否定的な発言はしないよう指導された。
悪くない、汚れていない。……ならばこの答えを出すわたし自身はどうすればいいのだ。
気づかないことを教えてくれてありがとう。
でも「わたしが悪かったのだ」と言って納得し、自分のひざを抱こうとするこのわたしは、どこに行けばいいのだろう?

グルグルと渦巻く感情の中で、とりあえず自分を肯定することに集中する。
そうでないとわたしは人生を「普通の人」のようにまっとうに幸せに送れないだろうと思う。
起点が「他人から損じられたわたし」なら、そこから出発するわたしのマイナスな思いは
「わたしが悪いと認めよう。すべてのトラブルはわたしに起因されている」という道をたどる。
ダメな子どもほど可愛い。ダメだなわたし、と斬りつけながら自分を抱きしめる。

肯定することとは、必ずしも自分を柔らかなプラスの言葉で包むことではない。
悪い、非情、嘘つき、…そういうものをひっくるめて自分を愛してしまうのが、自分を肯定することだと思う。
自己愛。
わたしからわたしを守るために必要な剣。他人に対抗するために使う盾。
死にたいと願う【綺麗でいたい】わたしを救う、もうひとりの【悪くて汚れた】わたし。
汚れたわたしは、綺麗なわたしを隠しながら生きたい一心で闘う。自分とも他人とも。

肯定を続けて否定の自分を心の中に押し付けて……そうして生まれたのが麻痺。
人の痛みがわかりづらい。
自分を切り分けて生きつづけていると、傷つきなれてくるらしい。
自分がこのくらい傷ついても死なないのだから、相手も平気。
……そんな軽い感覚で人と向き合っている自分がいる。相手の感性に思いが及びがたい。

人の気持ちがわかるなんて嘘だ。
思考の<流れ>がつかめるだけで、実際に気持ちがどうなっているかは自分の言語で表現できない。
脚本のあらすじは読めても印象に残るセリフやト書きがいえないのと同じだ。


こんなことが書きたいんじゃない。


わたしは殴っていないか、人を傷つけていないか?殴られる痛みに麻痺していないか。
言葉は傷つけてしまうだけのものなのか。
やはり、とも。 否、とも。

人生はうつくしい。それでも人生はうつくしい。
言葉でつながりあうWEB上のわたし達の人生は、お互いをきらきらと照らしあえるの?
この記事については文章が延びたり、縮んだりするかもです。





誕生

2008年06月15日 09:48

最初の子どもを亡くしたとき。
中島みゆきの「誕生」がFMで流れていた。

 恐れながら 憎みながら いつか愛を知っていく
 泣きながら生まれる子どものように もう一度生きるため泣いて来たのね
 remember  生まれたとき誰でも言われたはず 
 耳を澄まして思い出して 最初に聴いた Well Come!


妊娠がわかったとき産院から貰ったビデオテープ。「次からこのテープに、お子さんの成長記録を録っていきましょうね」
――そう言って顔見知りの看護師が笑いかけてくれた。
黒白だけのビデオの画像の中に、わたしの子どもは映っていた。
それがたった一つの形見になった。骨さえ残らなかった、小さな命。
この世に泣き声をあげることも失く、亡くした。

わたしは「誕生」を聞くたび、パブロフの犬のようにたらたらと目から涎が出る。自分を癒すためだろうか、ちっぽけな心の涎が出る。
手術の当日は涙など出なかった。叫びだけだった。「怖い、助けて、助けて」と麻酔が効くまで叫んだ。
なのに時が経つと涙が出るようになった。何のための涙なのだろう?自らを癒そうというのか?
それとも「悲しい」と、心は忘れるための記憶を刻み始めたのか?

癒したくなどない、取り返せないものを癒したくない。

remember 生まれてくれてありがとう  
出会う人に、出会う縁に、そう言っている自分の、一番最初に声を掛けたかった命にわたしはまだ向き合えない。
もしかしたら言われたいのかもしれない。生まれてくれてありがとう、って。
わたしの汚れた心でもありがとうと誰か言ってくれるんだろうか。

「誕生」を聴きながら情けない顔で泣いている。わたしはなにがしたいんだろう。



久しぶりに

2008年07月11日 04:25

人の背中を見て殺してくなった


…と書いたら、それは犯罪者予備軍の言葉だろうかね。
軍、軍かぁ。戦争って感じ?軍というにはあまりに衆を感じない孤独な心もちなんだけどな。

殺したくなる気持ちは衆(集)を形成できるのだろうか?
同じレベル・温度・同じような設定で同じ武器で、同じ角度から相手を嬲り殺すってのは、どうよ。
完璧な同調なんぞ浅ましき人間の精神レベルでは無理なのだからしてさ。無理だ無理。みんな同じでみんないい殺し方などできないし、そもそも同じ殺意をもてないのが人間だろう。
そこが人間のよさなのかもしれない。人間のお人よしさ。……はっ、人間だもの。『人』だわな。

どうして人間はケモノと自らを分け違えたるのだろう。どうしてわたしは。

ケモノだったらいいのに。ケモノだったら損得を考えず、喰いつきたいものに喰い付く。敵であるものには牙をむく。自分を守るために相手の血が流れようと平気。
ケモノだったら勘のよさでコイツ強そうだな、と思えばさっさと逃げるのだろうな。自分を守るために。
それでもいいのかもしれない。生きるって言うのが第一義なら。
わたしはケモノにもなれないか。――人にもなれないけどね。

わたしは「生きる」ことは第一義なのかな。一番大切なことなのかな。

殺したくなる背中を見ていると、自分が生きていることはどうでもよくなり、この背中に熱湯や鋭い刃や切れないロープを巻きつけ、或いは貫き刺し、浴びせかけ、そいつが煩悶しながら死に行く風景を淡々と見たくなる。
見るためならわたしの命が途絶えようと構わないとさえ、刹那に思う。そんなときがある。
聞かないでくれ、なぜ殺したいのか。

刹那は性的な満足と同義だろうか。性的な満足を…これといった達成感を感じたことがないが、殺人という想像の元に沸き立つ高揚感みたいなものは何だ?
安易に性と殺人をつなげてみせようとする自分の思考はいったいどれだけ醜いのだろう。
汚れているのだろう。

思う。性が汚いのか、殺人が汚いのか。それとも両方か。両方の境を見極めず同時に雑ぜて考えるわたしか。やはりわたしか。


地面がぐらりと傾ぐ。気のせいかもしれない。
傾ぎ続けるわたしの魂はどこまで落ちてゆけば、どこまで踏みつければよいのだろう。
汚い。わたしは汚い。人の背中に視界が真っ赤になるくらいの殺意を押し付けたがる。

わたしは汚い。