2008年01月25日 16:43
わたしは殴られなれてるから、殴られる痛みに鈍感なのかもしれない。
被虐待児が成長し、虐待の連鎖をするとよく言われている。
よく言われてないのか?
……いずれにしろ、わたしは虐待の連鎖はあると思っているし、自分が虐待をする側に立つことを恐れている。
わたしが子どものころ殴られたくなかったし、恐い目に遭いたくなかった。でも殴られ虐げられた。
今、長じて子どもを感情に任せ殴ろうとは思わない。
殴られたから殴り返す、それは子供同士の喧嘩ではありえても大人対こども、大人対大人では内容がずいぶん違う。
たとえば子どものときの古傷が痛むからと、大人の手が子どもにかけられては、子どもは幾つ命があっても足りない。
大人同士が殴り合えば、知恵に任せて相手を肉体的・精神的にねじ伏せるだろう。そんなことの望むらくもない。
そう。わたしは子どもの時代を生き抜き、成長して大人になった。
親から殴られても死なず、虐げられた屈辱に自死を図っても死なず、無事命を永らえたのだ。
こうして永らえた命は、わたしの目から見ると「虐待によって失った何かから得たモノ」だと思う。
肝心な何か、というところに当てはまる言葉は見つけられないのだが。
ゆるゆると生きながら思うのは、わたしは何か人より欠けているということ。
他人のせいにして申し訳ないが、申し訳ないがわたしはナニかを欠いたまま生きている。
それは自分が自分を手放そうと思う心を持つ前に、「心の芽」の時代に大きく他人から損じられたからだ。
――わたしはマイナスの想いに陥ると恨めしく思う。
何故わたしは殴られたのか?なぜわたしは虐げられたのか?
殴られて当然、虐げられて当たり前の人間だからか?わたしは悪く汚れているからか?
考えても答えが出ないようなことを延々と繰り返して出す答えは、
「わたしが悪く汚れている人間だからだ」
他人が悪いのだ、わたしを傷つける他人がわたしを汚してしまったのだ。
けれどわたしは生きたい。汚れてても生きたい。
汚れる前のわたしの分まで生きたい。
わたしのマイナスの起点は「他人から損じられた」という被害意識。
自然に欠けた、アクシデントで欠けたものでなく自ら落としたものでもない。強烈な被害意識。
――わたしは時々解離性同一性障害なのでは?って自分を疑う。
もしくはボーダー。はあ、医者に行けよ自分。っていうか、障害に行き着く自分が悲しい。
障害が嫌なのではない←こういう言い方はしないでおこう。
障害はないほうがいい。障害を持つと就業や就学でどうしても差別されるのを知っている。嫌だ、と言っても現実はそうなんだ。
けれど障害を持ち、手帳を交付される人だと少し待遇は違う。
国から補償された制度でお金はナントカなる。とりあえずお金で解決してくれようとする。健康な体に生まれたからには国からは何も保障されないものね。自分で保険を掛けて保障して、自分の足で立つのが健康な人。……だから、障害を持つ人のほうが時にはラクなこともある。
(こんなこと言ってたらアイツがすごく怒るんだろうな、とリアルな知人を思い浮かべる)
手帳を交付されない障害を持つ人は、、、、、、はっきりいって厳しい。
差別されるだけでちっともよかない。
手帳を持っている知人もいるし、手帳はない心の障害の知人も知っている。だから思う。
障害はないほうがいい。自分は手帳のないほうの障害ではないか?と行き着く自分が悲しい。
人は人を傷つけ差別する。
どんなに願っても差別や虐待はなくならない。
自分に障害があると思いたくない。
いろんな被虐待児と関わってきた人らが書くものに、被虐待児に対し『あなたは悪くない、汚れてない』と教えてあげる、と書いてある。
先日参加したCAPでも被虐待児に否定的な発言はしないよう指導された。
悪くない、汚れていない。……ならばこの答えを出すわたし自身はどうすればいいのだ。
気づかないことを教えてくれてありがとう。
でも「わたしが悪かったのだ」と言って納得し、自分のひざを抱こうとするこのわたしは、どこに行けばいいのだろう?
グルグルと渦巻く感情の中で、とりあえず自分を肯定することに集中する。
そうでないとわたしは人生を「普通の人」のようにまっとうに幸せに送れないだろうと思う。
起点が「他人から損じられたわたし」なら、そこから出発するわたしのマイナスな思いは
「わたしが悪いと認めよう。すべてのトラブルはわたしに起因されている」という道をたどる。
ダメな子どもほど可愛い。ダメだなわたし、と斬りつけながら自分を抱きしめる。
肯定することとは、必ずしも自分を柔らかなプラスの言葉で包むことではない。
悪い、非情、嘘つき、…そういうものをひっくるめて自分を愛してしまうのが、自分を肯定することだと思う。
自己愛。
わたしからわたしを守るために必要な剣。他人に対抗するために使う盾。
死にたいと願う【綺麗でいたい】わたしを救う、もうひとりの【悪くて汚れた】わたし。
汚れたわたしは、綺麗なわたしを隠しながら生きたい一心で闘う。自分とも他人とも。
肯定を続けて否定の自分を心の中に押し付けて……そうして生まれたのが麻痺。
人の痛みがわかりづらい。
自分を切り分けて生きつづけていると、傷つきなれてくるらしい。
自分がこのくらい傷ついても死なないのだから、相手も平気。
……そんな軽い感覚で人と向き合っている自分がいる。相手の感性に思いが及びがたい。
人の気持ちがわかるなんて嘘だ。
思考の<流れ>がつかめるだけで、実際に気持ちがどうなっているかは自分の言語で表現できない。
脚本のあらすじは読めても印象に残るセリフやト書きがいえないのと同じだ。
こんなことが書きたいんじゃない。
わたしは殴っていないか、人を傷つけていないか?殴られる痛みに麻痺していないか。
言葉は傷つけてしまうだけのものなのか。
やはり、とも。 否、とも。
人生はうつくしい。それでも人生はうつくしい。
言葉でつながりあうWEB上のわたし達の人生は、お互いをきらきらと照らしあえるの?
この記事については文章が延びたり、縮んだりするかもです。
被虐待児が成長し、虐待の連鎖をするとよく言われている。
よく言われてないのか?
……いずれにしろ、わたしは虐待の連鎖はあると思っているし、自分が虐待をする側に立つことを恐れている。
わたしが子どものころ殴られたくなかったし、恐い目に遭いたくなかった。でも殴られ虐げられた。
今、長じて子どもを感情に任せ殴ろうとは思わない。
殴られたから殴り返す、それは子供同士の喧嘩ではありえても大人対こども、大人対大人では内容がずいぶん違う。
たとえば子どものときの古傷が痛むからと、大人の手が子どもにかけられては、子どもは幾つ命があっても足りない。
大人同士が殴り合えば、知恵に任せて相手を肉体的・精神的にねじ伏せるだろう。そんなことの望むらくもない。
そう。わたしは子どもの時代を生き抜き、成長して大人になった。
親から殴られても死なず、虐げられた屈辱に自死を図っても死なず、無事命を永らえたのだ。
こうして永らえた命は、わたしの目から見ると「虐待によって失った何かから得たモノ」だと思う。
肝心な何か、というところに当てはまる言葉は見つけられないのだが。
ゆるゆると生きながら思うのは、わたしは何か人より欠けているということ。
他人のせいにして申し訳ないが、申し訳ないがわたしはナニかを欠いたまま生きている。
それは自分が自分を手放そうと思う心を持つ前に、「心の芽」の時代に大きく他人から損じられたからだ。
――わたしはマイナスの想いに陥ると恨めしく思う。
何故わたしは殴られたのか?なぜわたしは虐げられたのか?
殴られて当然、虐げられて当たり前の人間だからか?わたしは悪く汚れているからか?
考えても答えが出ないようなことを延々と繰り返して出す答えは、
「わたしが悪く汚れている人間だからだ」
他人が悪いのだ、わたしを傷つける他人がわたしを汚してしまったのだ。
けれどわたしは生きたい。汚れてても生きたい。
汚れる前のわたしの分まで生きたい。
わたしのマイナスの起点は「他人から損じられた」という被害意識。
自然に欠けた、アクシデントで欠けたものでなく自ら落としたものでもない。強烈な被害意識。
――わたしは時々解離性同一性障害なのでは?って自分を疑う。
もしくはボーダー。はあ、医者に行けよ自分。っていうか、障害に行き着く自分が悲しい。
障害が嫌なのではない←こういう言い方はしないでおこう。
障害はないほうがいい。障害を持つと就業や就学でどうしても差別されるのを知っている。嫌だ、と言っても現実はそうなんだ。
けれど障害を持ち、手帳を交付される人だと少し待遇は違う。
国から補償された制度でお金はナントカなる。とりあえずお金で解決してくれようとする。健康な体に生まれたからには国からは何も保障されないものね。自分で保険を掛けて保障して、自分の足で立つのが健康な人。……だから、障害を持つ人のほうが時にはラクなこともある。
(こんなこと言ってたらアイツがすごく怒るんだろうな、とリアルな知人を思い浮かべる)
手帳を交付されない障害を持つ人は、、、、、、はっきりいって厳しい。
差別されるだけでちっともよかない。
手帳を持っている知人もいるし、手帳はない心の障害の知人も知っている。だから思う。
障害はないほうがいい。自分は手帳のないほうの障害ではないか?と行き着く自分が悲しい。
人は人を傷つけ差別する。
どんなに願っても差別や虐待はなくならない。
自分に障害があると思いたくない。
いろんな被虐待児と関わってきた人らが書くものに、被虐待児に対し『あなたは悪くない、汚れてない』と教えてあげる、と書いてある。
先日参加したCAPでも被虐待児に否定的な発言はしないよう指導された。
悪くない、汚れていない。……ならばこの答えを出すわたし自身はどうすればいいのだ。
気づかないことを教えてくれてありがとう。
でも「わたしが悪かったのだ」と言って納得し、自分のひざを抱こうとするこのわたしは、どこに行けばいいのだろう?
グルグルと渦巻く感情の中で、とりあえず自分を肯定することに集中する。
そうでないとわたしは人生を「普通の人」のようにまっとうに幸せに送れないだろうと思う。
起点が「他人から損じられたわたし」なら、そこから出発するわたしのマイナスな思いは
「わたしが悪いと認めよう。すべてのトラブルはわたしに起因されている」という道をたどる。
ダメな子どもほど可愛い。ダメだなわたし、と斬りつけながら自分を抱きしめる。
肯定することとは、必ずしも自分を柔らかなプラスの言葉で包むことではない。
悪い、非情、嘘つき、…そういうものをひっくるめて自分を愛してしまうのが、自分を肯定することだと思う。
自己愛。
わたしからわたしを守るために必要な剣。他人に対抗するために使う盾。
死にたいと願う【綺麗でいたい】わたしを救う、もうひとりの【悪くて汚れた】わたし。
汚れたわたしは、綺麗なわたしを隠しながら生きたい一心で闘う。自分とも他人とも。
肯定を続けて否定の自分を心の中に押し付けて……そうして生まれたのが麻痺。
人の痛みがわかりづらい。
自分を切り分けて生きつづけていると、傷つきなれてくるらしい。
自分がこのくらい傷ついても死なないのだから、相手も平気。
……そんな軽い感覚で人と向き合っている自分がいる。相手の感性に思いが及びがたい。
人の気持ちがわかるなんて嘘だ。
思考の<流れ>がつかめるだけで、実際に気持ちがどうなっているかは自分の言語で表現できない。
脚本のあらすじは読めても印象に残るセリフやト書きがいえないのと同じだ。
こんなことが書きたいんじゃない。
わたしは殴っていないか、人を傷つけていないか?殴られる痛みに麻痺していないか。
言葉は傷つけてしまうだけのものなのか。
やはり、とも。 否、とも。
人生はうつくしい。それでも人生はうつくしい。
言葉でつながりあうWEB上のわたし達の人生は、お互いをきらきらと照らしあえるの?
この記事については文章が延びたり、縮んだりするかもです。



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