手紙 2

2008年04月01日 04:06

とあるところでポツポツ書いている日記を隠したら、「日記が消えてる」と心配してもらった。

元気です、ダイジョウブです。ちと最近、休息が足らないのです。

夜中に性懲りもなく目が覚めて、ボンヤリと誰に宛てるでもない手紙を書いてます。
(前略)
WEBに置く言葉の 大事なことは* 一つ一つが、時間を経るごとに大切なものなのだと 認識して今に到っています。 思うようになりました。
けれど、過去記事に遡って「こんな記事のこの部分を今の認識にあわせる」・「知識を得て誤読の部分を修正する」ことをすると、過去の自分が崩壊しそうで強く不安です。

明らかに修正を要することは真摯に受け止め、直していきたいと思うのですが。



そのとき綴った感情を、修正をしつつ構成しなおそうとしても乖離してしまう。

それは、過去と現在の自分の心に変化が生じているからでもあり、修正前の認識の下に起こる感情が元を立て直すことで「砂上の楼閣化」するからでもあるでしょう。
認識の下に起こる感情だけではなく、感情が先立って認識に作用することもあれば、認識と感情がともに手を携えていることもあるでしょう。

認識、という言葉を使いましたが、この表現にこの言葉も適しているのかよくわかりません。

単に「間違ったことを正しいこと」に直すことは時間を経てもできますが、感情や表現を直すのはたやすくないのです。時間を経るごとにそれは困難になると思います。
過去の記事の、過去の感情/表現を書き直す行為は、自分の過去ログを消すこと。更新、更新……と自分をリロードして、自分がどんな軌跡を書いたかわからなくなってしまうようで。恐いのです。
過去の感情や表現のレイアウト、テンションを崩さず違う言葉に置き換える術をわたしは持ち得ていません。

何のためにブログを書いているのか。

それはある意味、自分を更新し続けることかもしれません。
けれど過去のない、最新の記事、最新の感情しか表に出せない自分ならば、WEBに言葉を置く必要はない。
――そう思います。

何書いてるのかわからなくなりました(汗)。
あの方に表現の修正をお願いしたのは間違っていたかもしれない。
けれど思うのです。間違ってない、あのときのわたしはそう感じたのだ。

そうでなくてはここにいる必要はありません。ちっちゃい、わたしなのです。

 *訂正したりしてw  

夜には消える記事なれど 手紙を2回も隠すのも疲れるので、思い直してこのまま放置。表現の修正』と書いたのは、精一杯の抵抗。
先の手紙もできたら公開したいくらいだ。――などと、、拗ねてみたり。

追記 4/2 03:08


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