あとで読む。「非営利目的」について
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難しいのう。。。
全然関係ないフォーラムのスレ。
迷惑ブログバスター 記事の件名: Re: スレ自体が ”意味ね。”という発言ではないのでは?Posted: 2006/05/06(土) 09:33 に目を惹かれる。
この言葉はわたしにとっても目標だ。
こんな風に考えたいという思いはある。けれど100%同意できない。
それは自分がまだその考えに至らない、成長途上であるから。
☆ ☆ ☆
今、わたしがひたひたと歩いている道はこの方の文章の中の、このあたり。(ちょっと長い)
世界のすべてのことをすべて受け入れ、考え、答えて問うことは人間の体にはできない。時間的にも。精神的にも。体力的にも。
非難は無関係と友達なんだろうな。ポツンとそう思う。
生産性とか発展性とか、とてもニュアンスが機械的。鋼の匂いの言葉はちょっと苦手だ。
けれど言葉のやり取りで徒労に終わるより、何か別の文章を生み出したり育ったりすることが≒生産性や発展性 と考えれば理解できる。
「浪費」という言葉に違和感を感じるのは、自分も浪費してることの逆ギレかな?裸の王様が耳に痛い。
建設的にコミットとか、、、そんなにうまく言語化できるものでもないのだけれどね。
わたしはサイレントマジョリティを否定はしない。わたしが時としてそうであるのだから。生きているわたしをわたしは否定しない。
世界と無関係でいたくない、けれど世界のすべてを受け入れるほどわたしは全能じゃあ、ない。
わたしが世界と無関係でいたくないのは、この世に生れ落ちて、自分以外の他者を感じたからだろう。他者への興味でもある。興味が高じてコミュニケーションし、自分の心に芽生えた感情は自分だけの財産だとも知った。愛情も憎しみもごった煮で知った。自分がひとりである感触は恐怖だった。
世界と無関係でいたくない/つながりを求める のは、遺伝子地図に描かれた道のひとつなんじゃない?とか。……とか。
道ならどこにゴールを見いだすか?とか、「地図」で言葉遊びしてはいけないんだけど。
わたしの遺伝子地図はたった一人の登場人物ではなく、生を終わるまでにめぐり合えないほどのたくさんの人や縁で構成されている。
わたしはわたしなんだけど、結局自分だけの「わたし」になれない。ならない。
世界と無関係ではいられないと思うのは、わたしの驕りだろうか。
理路整然と明確にできなくても、無関係ではいられないと思う、お節介な人間≒わたし。
同時にすべてに関わることの限界も知っている。中途半端に通りすがることの危険さも。
浪費、浪費。この言葉が喉の奥に引っかかる。
一生懸命生きて、向き合って、それでもすべてに向き合えない無力感に襲われることがある。
携わりたいことであっても、それをなせば別などれかを捨てなくちゃならないとしたら、わたしは自分にとって大切なものの方を選ぶ。それがサイレントマジョリティであっても、何であっても構わない。
全能ではない自分が守れるものは少ない。もしかしたら何も守れないかもしれない、向き合えないかもしれない。
けれどわたしは選ぶ。選ぶことは浪費ではない。「浪費ではない」と綴る指先が凍る。
意味のないことなどないと思う。世界と無関係ではいられないのだ、とも思う。
非難と議論は別物。
わたしはどう関わっていくのか。
――なんだかとりとめがなくなってしまった。
冒頭のリンク先まだ読んでない。自分ができること、関われることの限界をそっとみている。
見ているだけでは、駄目なのだ。たぶん。 考えよう。どこに自分が行くのか、何をしたいのか。
わたしは何のためにここでぼんやり書いてるのか。
※追記部分を書き出したことで一般公開に出す。 9/8 14:20
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難しいのう。。。
全然関係ないフォーラムのスレ。
迷惑ブログバスター 記事の件名: Re: スレ自体が ”意味ね。”という発言ではないのでは?Posted: 2006/05/06(土) 09:33 に目を惹かれる。
幸せになりたかったら、否定より肯定。批判より賞賛。反対より別意見。軽視より尊重。悪意より好意…
この言葉はわたしにとっても目標だ。
こんな風に考えたいという思いはある。けれど100%同意できない。
それは自分がまだその考えに至らない、成長途上であるから。
☆ ☆ ☆
今、わたしがひたひたと歩いている道はこの方の文章の中の、このあたり。(ちょっと長い)
自分に無関係なことを非難したところで、なんの生産性も発展性もない、それこそまったく意味のない行為であり、時間と労力の浪費であることを、「意味がない」と書き込んだ本人自身だけが気付いていないのです。喩えるなら、裸の王様です 。
世界のすべてのことをすべて受け入れ、考え、答えて問うことは人間の体にはできない。時間的にも。精神的にも。体力的にも。
非難は無関係と友達なんだろうな。ポツンとそう思う。
生産性とか発展性とか、とてもニュアンスが機械的。鋼の匂いの言葉はちょっと苦手だ。
けれど言葉のやり取りで徒労に終わるより、何か別の文章を生み出したり育ったりすることが≒生産性や発展性 と考えれば理解できる。
「浪費」という言葉に違和感を感じるのは、自分も浪費してることの逆ギレかな?裸の王様が耳に痛い。
それに気づいている人は、書き込まないで、「自分には関係のないことだ」と黙って去っていく。これが一般社会でも普通の行為であり、圧倒的多数を占めるサイレントマジョリティです。
建設的にコミットとか、、、そんなにうまく言語化できるものでもないのだけれどね。
わたしはサイレントマジョリティを否定はしない。わたしが時としてそうであるのだから。生きているわたしをわたしは否定しない。
世界と無関係でいたくない、けれど世界のすべてを受け入れるほどわたしは全能じゃあ、ない。
そこから一歩進んで、建設的にコミットできる人は、論点を形式知化(考えていることを理路整然と明確に)できますから、非難ではなく、議論を持ちかけます。(非難と議論が別物であることは言うまでもありますまい)
わたしが世界と無関係でいたくないのは、この世に生れ落ちて、自分以外の他者を感じたからだろう。他者への興味でもある。興味が高じてコミュニケーションし、自分の心に芽生えた感情は自分だけの財産だとも知った。愛情も憎しみもごった煮で知った。自分がひとりである感触は恐怖だった。
世界と無関係でいたくない/つながりを求める のは、遺伝子地図に描かれた道のひとつなんじゃない?とか。……とか。
道ならどこにゴールを見いだすか?とか、「地図」で言葉遊びしてはいけないんだけど。
わたしの遺伝子地図はたった一人の登場人物ではなく、生を終わるまでにめぐり合えないほどのたくさんの人や縁で構成されている。
わたしはわたしなんだけど、結局自分だけの「わたし」になれない。ならない。
世界と無関係ではいられないと思うのは、わたしの驕りだろうか。
理路整然と明確にできなくても、無関係ではいられないと思う、お節介な人間≒わたし。
同時にすべてに関わることの限界も知っている。中途半端に通りすがることの危険さも。
浪費、浪費。この言葉が喉の奥に引っかかる。
一生懸命生きて、向き合って、それでもすべてに向き合えない無力感に襲われることがある。
携わりたいことであっても、それをなせば別などれかを捨てなくちゃならないとしたら、わたしは自分にとって大切なものの方を選ぶ。それがサイレントマジョリティであっても、何であっても構わない。
全能ではない自分が守れるものは少ない。もしかしたら何も守れないかもしれない、向き合えないかもしれない。
けれどわたしは選ぶ。選ぶことは浪費ではない。「浪費ではない」と綴る指先が凍る。
意味のないことなどないと思う。世界と無関係ではいられないのだ、とも思う。
非難と議論は別物。
わたしはどう関わっていくのか。
――なんだかとりとめがなくなってしまった。
冒頭のリンク先まだ読んでない。自分ができること、関われることの限界をそっとみている。
見ているだけでは、駄目なのだ。たぶん。 考えよう。どこに自分が行くのか、何をしたいのか。
わたしは何のためにここでぼんやり書いてるのか。
※追記部分を書き出したことで一般公開に出す。 9/8 14:20



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