八月八日 雷雨[病院にて] 産婦人科の自動ドアが開くと、受付を挟んで左右に来訪者は分かれる。
左は産科、白いレースのカーテン。大きく採ったガラス窓からいつも陽射しがこぼれ、原色の小さなぬいぐるみが細細と長椅子の合間に転がる。待合の合間に読む雑誌は育児雑誌の数々。
ハト時計がひとつ、ベビーベッドがひとつ、粉ミルクの会社の販促用らしいカレンダーがふたつ。
右は婦人科、ラベンダー色の御簾を気取ったデザインカーテン。一日に数度、職員が待合所の明るさを調整しに来る。薄暗い黄昏色に保つため。
ここに長椅子はなくて。窓に向ってポツリポツリと一人掛け用のチェアが並んでいる。
必然とラベンダー色のカーテンに向き合う来訪者。遠くに赤ん坊の声を聞きながら、場違いなガーデニング雑誌を手にとり、読むでもなくボンヤリ過ごす。
わたしが今日、足を運んだのは右のほう。
覚悟はしていたんだけれど。やはり現実を口にされるとショックというか。
「全嫡でいきましょう。」
「二、三年なんて待てないよ」
「まだ若いから」
「まずこの強度の貧血を治療しないと手術は……」
矢継ぎ早に言われても、外の雷雨が気になる。診察室の絨毯は深くて、サンダルのわたしは軽くよろける。
内診され、圧迫された腹部がじくじくと痛い。
……いたいよう。
[闘病ということ] わたしの場合、闘病と言うのに当たるのだろうかと考えつつ答えが出せない。
病気と闘って負ける、その延長が更なる病の苦しみ。そしてその先の死。
病気と闘って勝つ。その延長に生きていく苦しみ、老いていく雑多なあれこれ。
……で、やはり避けられない死。
人は必ず死ぬ。
当たり前のことだけど、人は、逃げたがる。逃げたがるのはわたしだけかも知れない。今深く考えるのは保留にしておこう。
雑多なあれこれ、老いに寄る肉体の変化、老いについていけない感情とか。
病気を受け入れてありのままに生きる人もいるにはいるけれど、わたしはそこまで自分の状態に熟れていない。
ありのままに生きようが、戦うぞ! と張り切って自らを病気とのバトルエリアに引っ張っていき、哀れ玉砕しようが、すべての先にみんな平等に与えられる死がある。
平等とはありがたいことだ。
――で。病変の部分をさっくり切り取ってしまうしかないわたしは、実感として闘病がない。
現状として血が止まりにくいまで身体機能が落ちているので、これを一定まで戻さないと手術もできない。戻らないとなると、あらたな検査もあらたな治療もするのだろう。
……いや、これは素人考えだ、忘れてくれ。
誰にともなく、次々と思いつくことに頭を振って否定してみる。夜の窓ガラスは暗い鏡になって顔を上げるわたしを映す。
卵が先か、ニワトリが先か。そうこう考えているうちに人生はあっという間に終わるのだよ、たぶんあっという間に。
窓ガラスに映る女の顔に表情は見えない。
わたしの病とはなんだろう。わたしは闘うのだろうか? それとも受け入れるのだろうか。
切り取るだけでは解決できない、肉体の重さを感じる。生きてる重力、みたいな。
考えても、考えなくてもこの先にみんなが等しく通る門が待っている。
平等とはありがたいものだ。
どこまで自分を切り取れば、わたしは今の状態に近く戻り、暮らしていけるのだろう?
どこで折り合おうか。どこで諦めようか。どこで笑ってみようか。
惨めに笑いたくない。――そう思うのは闘病というか、病に対する矜持に近い。闘ってなどいないぞわたしは。
ふふん、と嗤う。傘も役に立たないほど雨は降りしきり、水煙はドラムロールを打つ。どこからか沸いてくる緊張と喜びに似た感情。一か月分の白い薬は両手に一杯。ふふ。
ざまあみろ。
ざまあみろ。笑ってやる。神さまはわたしを捨てたんじゃない。
「もういいよ」 って背中を押してくれたんだ。平等の門へ。
満ちたる月[告白] 夫に病気の詳細を話した。全嫡と聞いて黙り込んだ。夕食のための買い物で、二人で出かけたスーパーの駐車場に月が昇る。
彼が目を合わさないのでわたしは月を見ていた。うなじをどことなく掻いてみた。
出血はしないもののあちこち痛くて、夕食を作るのもそこそこに居間に転がり込む。大きな猫のように丸くなって目を閉じる。
その横に夫は正座で座ると、まだ畳んでいない洗濯物を静かに畳み始めた。
わたしがこれまで愛した男性だ。そしてこれからも。
辛い時期を乗り越えたのは二人だったからだと思う。
二人でいるために逆に辛いこともあった。山ほどあった。二人でいないほうがいいとさえ思った。夫にできた恋人のこと、仕事のこと、借金のこと。誰にも言えないことがたくさんあって、ひとりで夜中のPCを覗いていた日々。
つい先週のこと、夫は友人に会うために夜中まで帰らなかったわたしに、三本のメールをよこした。明らかに嫉妬していた。部屋に戻ると言い争いになった。
自分の過去の不実を忘れているのか、と内心わたしは呆れた。愛されてるのかな、とチラリと思った。都合のいい愛だ、と思った。
彼から与えられた世界から飛び出したくて、その夜は携帯を持ったまま眠った。
その夫が、静かに家事を手伝ってくれる。
病気とは、病気を告白するとはこんなにも人の心を動かすのか、と皮肉っぽく思うわたしがいて。単純に嬉しいわたしがいて。
痛みは減らないけれど別な何かが満ちてくる気がした。
月は満ちては欠け、ひとときもとどまることを知らない。
わたしは夫の比翼の鳥か、いまだに自信はない。
けれど今まで二人で乗り越えた時間は大切にしようと思う。そして今、側にいてくれる、一緒に荒らしの海へ舟を漕いでくれようとする姿を素直にありがたいと思う。
夜中になると一時的に痛みは引く。
よろよろと起き上がると一緒に起きてきて
「早く寝ろよ」
といいつつ、外に煙草を吸いに出た。
風も雨もないもうすぐ満月の夜。
月に 幸せか? と聞かれたら しあわせだ、とこたえるだろう。
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